おりょーぶろぐ

みなさんが救われる一言を提供します!

加藤諦三さんの本で出てくる難しい言葉説明

神経症者、神経症的自尊心、この「神経症」とはなにか、Wikipediaに乗っていたのでしょうかいする。

 

間違えた、Wikipediaにのっていたのは神経症的要求の方だった。

以下、Wikipediaの引用

ホルナイは神経症的要求には4つの特徴があるとしている[1]

  • 神経症者のする要求は非現実的である。
具体的な例としては、自分が病気になったら皆はすぐに見舞いにくるべきだと考え、当然のことの様に考える。他人の都合は認めない。自分が病気の時に助けてくれない人が居ると恨み不公平だと感じる[1]
  • 自己中心性
神経症的自己中心性は特に悩みに表れる。たいていは「自分一人だけが」悩んでいると思っている。さらに自分の陥っている悩みが最大の悩みと思っている。相手がニコニコしていると悩んでいないと思う。神経症者は「かたち」でしかものを考えおらず、表面的にしか物事を見ていない。自分が相談しようとしている相手はあるいは現在の自分よりももっと大変な問題を抱えているかもしれない等ということは想像すらしない。相手の感情を無視し、相手に個人としての人格を認めない。「私にとって大切なもの」が「他人にとって必ずしも大切なもの」ではないことが理解できない。誰にも不必要に自分の恥部を打ち明けて話をする人はたいてい自己中心的である。打ち明けることで相手からの同情や保護を求めているためである[1]
  • それにふさわしい努力をしないで、それを求める
自分のしてきたことを棚に上げて、要求だけはする。その要求が通らないと相手を酷い人だと恨み、或いは社会不公平だと社会を恨む。現在の自分の悩みが今までの生き方の結果だと言うことを理解しない。そのため常に他人を責める[1]
  • 復讐性
自分の理想像への強迫的執着がある。虚栄心が強く、現実の自分の実力、能力、適性を無視して、何としても「理想の自分」になろうとする。神経症者は何としても出世をしたいが、皆から尊敬されるものであれば、何でもよく、自分がそれを好きか嫌いかは問題ではない。そのため、神経症者は自分が何を好きか嫌いかが分からなくなってくる。虚しさを名誉やお金で埋めようとする。成功しても達成感、満足感がなく、幸せになれない。なんとかして自分を嘲笑したものを見返してやりたい、なんとかして親の失望を取り返したい、そうした感情無意識の領域にある。「見返してやりたい」と努力する人は神経症で、自分の価値を信じて努力する人は心理的に健康な人と加藤諦三は説明している[1]

 

・・・読んでいると頭が痛くなる。まさに自分のことだと思う。

どこに行っても自分はお客様だと思ってしまう。バイトでも仕事でもそう。わからないことは絶対に教えてくれるべきだ。と思ってしまう。そう言われればそうだとなるかもしれないが、自分の頭で考えるべきことにもどこかに正解が存在し、それでなくては絶対嫌である、と思ってしまう。

虚栄心が強い、高校生のときにも自分はテストの点数をよく嘘をついて公表していた。

自分を神経症者に仕立て上げたいと思っているのも事実。だが、もう社会の中に出て明るく生きようなど、懲り懲りなのである。あの照りつく太陽の中で、笑顔溢れる人と接し、一緒に努力し、何かを成し遂げ、喜び合う。友達、彼氏彼女、親、祖母、祖父、親戚、同僚、部下、上司、社長、もう人間に会いにいくのが本当に疲れてしまった。勝手にしてほしい。もうひとりで生きていきたいのである。ほっといてほしいのである。静かに死んで行けばいいじゃないかと思うがそれは嫌なのである。毎日からあげは食べたいし、一人で静かに散歩がしたくなることもある。お金が欲しいのである。なんと意地汚い考えだろうか。水道ガス電気、今の自分の体、この生命、耳、目、四肢すべて誰かのおかげで存在している。今記事を書いている自分の脳みそも、教育があってこそこうやって書くことができている、いままでどれだけの方々のご迷惑となったか、そう考えれば今、誰かのために頑張らなくては行けないのではないかという気持ちになる。今住んでいる家は大工さんのおかげである。賃貸の契約のときには不動産の仲介があってこそ、契約できた。僕は書くという仕事で食っていけるようになりたい。書くことで自分を高めていきたい。書くことで、人の気持を楽にし、書くことで自分の気持を楽にしたい。