心の悩みを解決したい人は加藤諦三さんの本を読むことを強くおすすめします。
こんにちは。おりょーです。
今日は自分が毎日通勤中に読んでいる本の紹介となぜその本を読んでいるのかについて話します。
私は毎日が憂鬱でたまりませんでした。
無力感、疎外感なんで生きているのかわからない。自分に向いていることは何なのだろう。どうしたら前向きに努力して結果を出せる人間になれるのだろう。
そういうことばかりを考えて、日曜の夜には死にたくなり、この世の終わりかのように思い、月曜日の朝には絶望的な気分で会社に行くということを繰り返していました。
今この記事を書いているのも、日曜日の夜であり、またすごく憂鬱な気分になっています。
加藤諦三さんの本はkindleに50冊ほどあり、全部読みきれてないもののほうが多いかもしれませんが、とにかく加藤諦三さんの本に触れることで5ヶ月前の自分よりも少しだけ心が軽くなり、今はほんの少しだけ前向きになれました。
加藤諦三さんはよく「うさぎとかめ」の話を持ち出すのです。
「もしもしかめよ、亀さんよ。世界のうちでお前ほど、歩みのおそいものはない」
こう言われた亀はなぜか、うさぎと競争します。
うさぎのことも同様に「神経症者」だとしています。
わたしは今まで、この亀のような生き方をしていたから心が苦しかったのだと思いました。
私は友達といても常にどちらが上なのかを競っていました。
頭の良さ、お金はどれくらいあるか、スポーツの才能はどれくらいか、容姿はどちらのほうがいいか、彼女はいるか、精神年齢が高いのはどちらか、そういうことを競っていました。
勝ってるときには喜び、負けてるときには悲しくなりました。
そして、自分には本当の友達などどこにもいないのだろうと思っていました。
亀は遅いから亀なのである。亀は亀が幸せになれるように生きたらよかった。
陸の上にあがり、本来の自分の生物上の体の構造を無視して、無理な努力をしています。
亀には亀のいいところがあります。亀は長生きで、硬い甲羅があり、海の中でも無限に呼吸を続けていられます。きれいな海の中を優雅にのんびりと泳いでいられます。そんな自分のいいところを無視して、うさぎと張り合ったのです。
私は、出会う人すべての人に認められたいと思って生きていたのです。電車の中に乗っている喋ったこともない赤の他人にすら認められたいと思っていました。
スーパーに行って、菓子パンを買えば、健康に気を使えない頭の悪い人間だと店員さんに思われているのではないかと考える人はいないと思いますが、私はそんなどうでもいいことを考えていました。
自分は自分らしく生きたらいい。そう思って日々頑張って生きていこうと思います。
このブログを書いている意味なんてありません。ただ、頭の中が少しスッキリするだろうか。自分のように悩んでいる人がいたらもしかしたら自分の気持をわかってくれるかもしれない。そんなふうに思って今このブログを書いています。
自分はなんのために生きているのか、それは自分を幸せにするためです。
誰かに認められるためではありません。
加藤諦三さんは「行動することでその動機を強化する」とおっしゃっています。
親や友達に自分の生きている価値があることを証明するためにテストの勉強を頑張る。そしてなんとかいい点をとってすごいねと言われる。そうして、その時自分の心は楽になる。
これは一見いいことのように見えますが、自分の心が弱っていくことに気がついていません。
なぜなら、テスト勉強を頑張った動機が「ありのままの自分では愛される価値がない。だからテストでいい点を取らなければ愛してもらえない。」というものだからです。
テストでいい点をとろうと頑張ることで、心は余計に自己無価値感を強めていきます。
友達に劣っていると心では思っている。だからテストで勝とうとする。必死に努力して友達に勝つ。優越感に浸る。その瞬間は心が楽になります。しかし、そうすることで余計に自分の劣等感が強くなります。
私の人生はこれを繰り返しまくっていた気がするのです。
部活でバスケットを頑張る。それはバスケットを好きで頑張っているのではない。「部活をやっていない人間では価値がない」そう思ってバスケットをやっていました。
勉強ができない人間では生きている価値がない。そう思って勉強を続けるうちにどんどんありのままの自分では価値がないような気がしていました。一回勝ってもまた勝たなくてはいけない恐怖感もありました。
怖いことにこの優越感は麻薬のようで、一回味わうとまた味わいたくなるんです。
しかし、そうするたびに自己無価値感が育ち、自分の劣等感はより大きなり、
気づいたら本当に自分は価値がなく人より劣っている。そう強く強く思い込むようになりました。
今このブログを読んでいる人には自分のようになってほしくはありません。
人は生まれた瞬間から劣等感を持つわけではありません。
生まれたときの周囲の人に劣等感を植え付けられてしまったのです。
子供は幼いときは認めてほしい、愛してほしい。そんなふうに思っています。
その幼児的願望が満たされないで育ってしまった人は、大人になってもその願望をもってしまい、誰にでも認めてほしい、そういうふうに思って生きてしまいます。
さて、ここまでごちゃごちゃ書いてきましたが、幼い頃に認めてもらえなかった自分はどう生きていきばいいのか、それは自分は自分のままでいい。そう唱え続けなければなりません。自分はありのままの自分で愛してもらえなかった。その事実を認めることは苦しいです。
しかし、何100回も何万回もとなえ続けなければなりません。
加藤諦三さんは人生は不公平だとおっしゃっています。
幼い頃に、一緒にごはんを食べながら、あなたにこれでもかとしつこく話しかけてくれる。「今日学校は楽しかった?」「唐揚げおいしいね」「あなたとごはんを食べれてお母さん楽しい。」そういう言葉をかけてもらいながら育った子供。
反対に一緒にごはんを食べながらもテレビに夢中で子供に無関心な親に育てられた子供。
両親が仲良しで、喧嘩もすることがあるけれど、最後にはお互い納得しあって前向きに生きている両親のもとに育った子供と、両親がいつも不機嫌でそこにいるだけで親に気を使い、自分の発言で何されるかわからない恐怖感とはりつめた緊張感を持ちながら育った子供。
明らかに違います。天国と地獄の差です。
天国で育った子供に張り合っても100%負けます。
心を経済に置き換えればわかります。
最初から土地を住む家を与えられた人と土地も家もなく、借金がたくさんある人
社会はさまざまな背景を持った人が頑張って生きています。
自分はどういう過去を持って生きているのか。
もう一度よく考えて、自分は自分らしく。そう前向きに生きていきたいと思っています。